Rhizomatiksの公演「discrete figures」を観た

皆さんご存知Rhizomatiksの最新公演をみたので感想を書きます。

ネタバレがあるので注意

今回観てきた「discrete figures」は、Youtubeに三分くらいの動画があがってます。ダンサーはelevenplayの5人。会場は青山スパイラルという渋谷駅から歩いて10分くらい(地下鉄なら2秒)の格好良い施設3Fのスパイラルホール。

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僕たちはこれまでの科学でなにかこう、日に日に写真と見分けがつかなかるゲームの画面や、その世界で大半の時間を過ごすような人々も現れているバーチャル・リアリティーの世界など、この世界を正確に記述して、何かの上で再現し、あるいはそこに自分たちの意思で自由に変化を加えることを目指してきた気がする。僕たちがトロンやマトリックス、最近ではソードアート・オンライン、レディープレイヤーワンに観た夢はもちろん沢山の課題を残しつつではあるけど、少しずつ、現実のものになろうとしていると思う。

では、そういった技術が実現し、僕たちがその「第2の現実」の中で、この現実ではできなかった、「自由な変化」を手にして生きられる様になった時、僕たちはどうなるのか。自由に見た目や動きをコントロールできる世界で、自分とはなにか。データの上で複数人を「合成」できる時代に、自分とはこの自分一人なのか。長年の夢が実現した先は、今よりずっと良いのか。そういった、僕たちが今大急ぎで向かっている、「未来」に対する重要な問いに対する、Rhizomatiksの新しい価値観の提示の様なものを、本作に見ることができたと思う。もちろん無知な自分には抽象的で、これが「表現の拡張」なのかそれとも「お気持ち表明」なのかわからないとこもあったので、なんとなくかけそうなことだけ書こうと思う。

作品の中で最も重要なオブジェクトとして、各ダンサーの前に置かれたパネルが挙げられると思う。パネルの中では5人のダンサーが、様々な形で「再現」される。それは、人形のアバターのボーンがダンサーと同じ動きをするもの、ダンサーの体勢をプリミティブな図形で表したもの、動きを追いかけるような線の集合で表したもの、ダンサーと同じ見た目のモデルが、ダンサーと同じ動きをするもの、ローポリっぽいやつ、時には全く動かないもの、など、様々な抽象度で、異なった視点からダンサーをパラメータ化したと思われる「再現」を投影しながら、目まぐるしく変化する。それぞれ一人の人間をもとに「再現」を行ったものだが、形態は大きく異なる。この中では、大きく区別として、そのアバターが誰を対象にしたか判別がつくものとそうでないものがある。前者は僕たちが慣れ親しんだ「自分」という感覚への認識そのものだ。鏡やスマートフォンに映るものは、「自分」の再現。映っている人物は、自分だということに、誰も抵抗は覚えないと思う。しかし、後者はそうは行かない。5人のダンサーにそれぞれ1対1の対応関係をたしかに持っていたはずのパネル(=鏡)は、あるタイミングからその位置関係を、離れたものから5枚をくっつけて1枚の大きなパネルとしたものに変え、「一つ」として大きな1枚のパネルになる。この大きな1枚のパネルでは、5人の情報を元に「合成」させたような塩基配列の様なものから、各ダンサーの動きを反映したパーティクルが相互に結び合って一つの大きなうねりを起こしているものなど、あくまで「一つ」として「五人」を再現していた。この「一つの鏡に、一つの自分」という、揺るぎないこの世界の対応関係の境界を曖昧にさせるものとして、このパネルを考えることができ、またこのパネルは、僕たちが向かっている未来の一つの側面を表していたように感じた。

こうした、自己や他人、もしくは自分の再現(それは1対1かもしれないし、「合成」かも知れない)の区別が曖昧になっていき、それらの間の相互な関係性が生まれる世界で、世界と、自己の間の認識の大きな部分を占める、自分自身がここに「いる」(ある)という感覚は、どのように理解されるのだろうか。そういった、極めて言語化にしにくい様な部分への言及が、公演中盤、カメラに映される、実際に舞台上で踊るダンサーのすぐ側に、リアルタイムに合成されたもうひとりの「バーチャルなダンサー」が現れる映像が舞台の背景に投影されるシーンに現れていたように感じた。舞台上には、確かに踊っているのは一人だけであったが、背景に映る映像では、二人。そこには、「確かにいないけど、確かにいる」といった、従来の感覚では咀嚼できないような、「存在」に対する新しい認識を提示されたような感覚があった。なにはともあれ、僕には舞台に人が二人いるようには見えなかったが、でも確かにそこでは、二人のダンサーが踊っていたのであった。こうした感覚は、主観と客観の間での間で相違があれど、しかし僕たちが向かう「曖昧な世界」における「存在」の認識において、近いところがあるように感じた。きっとその世界では僕が今日見たような、従来の感覚では咀嚼できない新たな感覚のようなもの(これは実際に見ないとわからないものな気がする)でもってこの世界やこの世界で言う自己や他者(そういう物があるかどうか分からないが)、「合成された自分」を捉えていくのではないだろうかと思った。

 

 

こうした、自分たちが向かおうとしている未来の姿や、その中における自己やその認識について考える機会が持てて良かった。elevenplayのダンサーの方々鬼気迫る演技には同じ人間としてここまでできるのかといった感銘を受けた。なによりクリエイティブコーディングだとかメディアアートとかいうワードが好きな自分には、生で真鍋大度氏やカイル・マクドナルド氏が仕事をしている現場をみれたのはアツすぎた(カイル・マクドナルド氏、浅井裕太氏がなにやらホールの入口で作業をしているのを観たときは声が出そうになった。僕はoFはつかえなくてProcessingだけなのだが)。来週にはflying tokyoというRhizomatiks主催のアーティストから直接話を聞けるイベントに抽選が通り行けるらしいので、寝坊しないようにしたい。